呆然とする美鶴を前に、担任はさらに続ける。
「ただ、こちらが強く希望するのは受験する大学だ。学部や学科はできるだけ生徒の希望も取り入れている。君の場合は文系だからそちらの方向で学部を明記してみたが、君に希望があるというのなら伺いたい」
紙を美鶴へ押し戻す。
「君は数学や生物も学年トップだから理系が狙えない事もないが、物理のような理系向けの授業は受けてないし、数学の内容も理系クラスとは若干異なるから、それらの科目が必要となる学部は無理だな。まぁ君くらいの実力者なら、今から方向を変えてそれらの科目を猛勉強しても間に合わない事はないだろうけどね。何だい? ひょっとして、本当に理系を希望したりするのか?」
チョンチョンと、人差し指で紙を叩く。大学名や学部などが記された横に、細長い空欄があった。生徒が記入する欄だ。
「希望の学部や学科があったら、言ってごらん」
言ってごらんと言われても、美鶴には答えようもなかった。
進路を学校が決めるなんて、そんなのは理不尽だと思う。聡の言い分はもっともだ。
机の一番隅で、視線は教科書へ落としたまま聞き入っていた美鶴は、珍しく聡と意見が一致した。そして、コウやツバサの話には、やはり聡と同じように反論ができなかった。
明確な希望進路がない。
たとえば美鶴が就職したいと言い、それが聞き入れられたとしよう。だが就職すると言ったって、具体的にどのような職種を希望するのだ? 問われれば、美鶴はやはり答えられない。ただ漠然と卒業すれば就職するのだと思っていただけで、特別就きたいと思っている職種があるわけではない。やりたい仕事があるワケではない。
やりたい事があればそれを武器に反論もできようが、無くてはどうしようもない。
ふと、ツバサに言われた言葉を思い出す。
「美鶴もさ、少しは自分の気持ちを出してみなよ」
言われて、考えた。自分はいったいどうしたいのだろう?
思えば美鶴は、したいとかやりたいという希望を持って生活してきたワケではない。
したくない、やりたくないという思いはたくさんある。
他人とは関わりあいたくない。嗤われたくない。人を好きにはなりたくない。
だが、したい事はと問われると、答える事ができない。
無造作に髪を掻きあげる。もうずいぶん長くなってしまった。後ろ髪はまた項で結ぶようになった。中途半端な前髪が時々鬱陶しい。そんな髪を掻きあげる。
ふわりと、優しい香りが漂う。
銀梅花。
目が覚める。
このシャンプーは、どうしても欲しいと思った。
霞流さん。
細く切れた、涼しげな目元に浮かぶ卑猥な光り。
「私はそのジョーカーを、ハートのエースに変えてみせますっ!」
勢いで叫んでしまった美鶴を、霞流慎二は薄暗闇の中で、なんとも呆れた表情で見下ろした。
「お前が何をやろうと勝手だが」
ピンッと指差す美鶴の手首を握り締め、無遠慮に振り払う。勢いにヨロけるのも構わない。それまでの「大丈夫ですか?」などといった紳士風情な言葉もない。
「俺はお子様ランチを注文した覚えはないし、そんなものに付き合っている暇もない」
轟音の響き渡る異世界への扉に手をかけ、一気に開け放つ。
「失せろ」
吐き捨て、階段を下る。扉の閉まる瞬間に口元に笑みが浮かんだのは、美鶴の錯覚だろうか?
ハートのエースって………
思い返すと、顔から火が出る。
私、なんて事を叫んでしまったんだろう。
だが、あの場ではもはや引き下がれなかった。霞流慎二が好きだ。その気持ちに自信はあった。
そうだ。この気持ちは、数少ない確定的な真実だ。
霞流さんを振り向かせたい。
そこで美鶴はグッタリと俯く。
それは確かにやりたい事なんだろうけど、進路とはまったく関係ないよなぁ。それにさ、振り向かせるっつったって、いったいどうしたらいいのか。
自分の気持ちが少しだけわかりかけたような気がしたのに、結局は自分がどうしたいのかについての明確な答えは、相変わらず出せないまま。
進路かぁ。
昨日は担任の話にただ驚愕してしまい、まったく頭がまわらなかった。特に希望がないのならとりあえずはこの進路を目指して頑張るという事で話を進める。
半ば強引ではないかと思える担任の言葉をぼんやりと聞きながら、追い出されるように部屋を出た。
学校が指定する大学へ進学する。
いや、学校は、進学するか否かは生徒に任せると言ってきた。進学率を上げるためには進学して欲しいのだろうが、まずは合格率だ。受験して、合格しなければならない。
納得どころか理解もできぬまま、教室へ戻った。そこで同級生の待ち伏せを受けた。
待ち伏せ、だよな。
奥二重の瞳が意味ありげな、何を考えているかわからない同級生。小童谷陽翔は、まるで女を口説くかのような声音で囁いた。
「大迫、俺と手を組まないか?」
それこそ意味不明。進路で混乱している頭をさらにかき混ぜる。
「は?」
怪訝そうに眉をしかめる美鶴を、陽翔は笑う。
「お前は山脇をどうにかしたいんだろう? それは俺も同じだ」
瑠駆真を人殺しのように罵った少年。
「俺はアイツが嫌いだ」
「らしいな」
「わかっているのか。なら話は早い」
暗闇と化す室内で、瞳が影に隠れながら光る。
「俺はアイツの恋をぶっ潰したいんだ」
綺麗な顔をして物騒な事を言うものだ。
「ぶっ潰す?」
「そうだ。アイツが誰かと両思いになるなんて、俺は許せない」
「ずいぶんと過激だな」
「お望みなら理由まで説明してやるよ」
「遠慮しておく。私には関係がないから」
「相変わらずだな。関係がないというのを理由に距離を取るのは癖みたいなものか?」
同級生だ。日頃の美鶴の言動くらい、見られていて当然。
「まぁいいや。聞きたくないのなら話す必要もない」
ペロリと唇を舐める。
「とにかく俺は、アイツの恋路を邪魔したいだけだからな」
艶やかな唇が歪む。
「だからさ、俺と手を組まないか?」
「手を組む?」
「簡単な事さ。俺と偽装恋愛してくれればいい」
「偽装?」
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